2016年11月19日土曜日

雨の日の紅葉散歩

色々あって、これまで紅葉を撮りにいく機会に恵まれませんでしたが、ようやく撮りに行こうとしたらあいにくの雨、
小雨の中、自宅の近所をブラブラ散歩しながら、少しだけでも紅葉の写真を撮りに出かけました。
持参したのは、防滴機能を備えたDA200mmをつけたK-1です。

最初は、お向かいのお宅の庭でみつけた紅葉です。


他にも、ご近所では紅葉を植えている家が結構あるなあと思いながら、他のお宅の紅葉を撮らせていただきました。



(多分)桜の葉っぱが色づいていた公園。


今回の目的地の、なかなか見事な紅葉が植えられているお宅に到着。


色づいた紅葉の写真を少しアップで狙ってみました。






何枚か撮らせていただいた後、最後に地面に落ちていた色づいた葉っぱを撮って帰宅することにしました。


最後の写真は、紅葉ではありませんが、帰り道でみつけた雨に濡れてしっとりと綺麗だったヒメツルソバの花です。



2016年11月12日土曜日

五百羅漢の寺

いつもは色づき始めた紅葉を撮りに行くことの多いこの時期ですが、久しぶりに五百羅漢の寺に出かけてみたくなって、
数年ぶり(10年以上ぶり?)に出かけました。
持参したのはDFA24-70mmをつけたK-1です。

最初は、自分にしては久しぶりの少し遠出で、山あいの雰囲気が気持ちよくて撮影した1枚です。


お寺の入り口。


中に入ると、さっそくお地蔵さんのようなたくさんの羅漢像が迎えてくれました。


最初なんとなく羅漢像を撮りましたが、どうやって撮っていいかわからず、なんとなく表情に惹かれた羅漢像などを
なんとなくポートレートのような感じで撮影しました。

そのときの羅漢像は、少しものめずらしい地蔵さんのように感じていたように思います 。






その後、参道を登って本堂の方へ移動。 本堂の中にも入ってみました。



不謹慎と思いながら、お経をとなえる雰囲気を撮影。


本堂の裏には、枯山水の庭も。




本堂の裏手から、境内の三重の塔がみえました。


本堂の裏庭にも、たくさんの羅漢像が・・・。


その後、三重の塔の方へ移動。


 今度は、三重の塔付近から本堂を撮影。


その後、別の参道を通って、また駐車場の方へブラブラと移動。





駐車場も近づいてきた頃、大きな石段にすごい数の羅漢像を発見。
思わず圧倒されてしまいました。


これらの羅漢像を眺めていたら、ようやくこの雰囲気に飲み込まれてしまうように感じたと思います。

羅漢とは「尊敬や施しを受けるに相応しい聖者」という意味だそうで、自分のような凡人は立ち入ることはできないようですが、
なんとなく、これらの羅漢像たちと一緒に、時を越えて、自分も受け入れてほしいような気持ちを感じたように思います。
(現在の我が家は神道ですが・・・。)

その後は、羅漢像がとても親しく感じられて、とても惹きつけられながら、自然とシャッターを押せたように感じます。






出口付近で、入るときには気がつかなかった龍の像を発見。
これらの五百羅漢を守っているようにも感じられて、なんとなく少し厳粛な気持ちで撮影しました。


その後、名残惜しい気持ちをもちながら、帰途に着くことにしました。

特に羅漢の写真を撮りたくなってきたわけではありませんでしたが、結果として、たまにはいつもと違うものを
撮影してもいいものだと思った1日でした。

山の夕暮れは早く、帰る頃には山あいに夕日が射していました。


2016年11月5日土曜日

先月風邪をひいて体調の悪かった日、なんとなく風車が見たくなって、確か風車があったように思われたあたりの海に
出かけてみました。
持参したのは、DFA24-70mmをつけたK-1です。

いつもの砂丘から風車の見えた場所を想定して、たぶんこのあたりだろうと推定しながら駐車場に停車して、
そこから歩いて海へと向かいました。

最初の写真は、駐車場から海に向かうための林の中の海への入り口です。


ひとつめの林のなかの通路です。


次に、ひとつめの林と2つめの林の間の道をしばらく歩きました。


2つめの林の中の通路への三叉路。


2つめの林の中の通路を通ると、やっと海が見えてきました。


やっと海を見渡せた場所で1枚撮影。


しかし、あたりを見渡しても風車は見当たらず、どうも自分は見当違いの場所に来てしまったようでした。

ただ、こんな場所にある海でも、ただ海を眺める人や、釣りをする人や、サーファーの人たちがたくさんいて、
「海が好きな人は本当に好きなんだなあ。」と思いつつ、少しブラブラしながら周囲を撮影。



左の方を眺めると、その端の方のずっと遠い場所に風車を発見。
思わず「自分の方向音痴もここまでひどかったか。」と思ってしまいました。


最後に、どんよりとした曇り空でしたが雲間から太陽の光が降り注ぐのが、少し幻想的にみえた風景を撮影し、
その後、帰途につきました。


(あとからですが)こうやって広大な海の風景を見渡している写真をみると、最近読み直した宮沢賢治さんの作品論
「言葉の流星群」の中で読んだ、宮沢賢治さんの詩「春と修羅」の中の詩の一節が思い浮かびました。

心象のはいいろはがねから

あけびのつるはくもにからまり

のばらのやぶや腐植の湿地

いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様

(正午の管楽(くわんがく)よりもしげく

 琥珀のかけらがそそぐとき)

いかりのにがさまた青さ

四月の気層のひかりの底を

(つばき)し はぎしりゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

自分は自然の風景に「広大だなあ。」と少し畏敬をもって、ただ眺めるだけですが、
宮沢賢治さんは、いつも自然の中にいながらも、いつも自然と対峙し、この詩の中では、気層にむかってつばを吐きかけ、
はぎしりするほどの怒りと悲しみを抱いていて、その強い意志と、それをこんな風に表現できる才能には、
ただただ、ため息が出るばかりです。

話は横道にそれましたが、今回「明瞭強調」処理は行ないましたが、どんよりとした雲の様子と海の様子を
両方しっかり描写してくれたのは、やはりK-1のおかげかなあ(?)とも感じました。